祈りの聖地こころの観音霊場・仁比山護国寺 地蔵院のご案内
いやしきも高きもいざやえらびなくただまことある 道まもるなり
当地蔵院の歴史は古く、天平元年(729年)、聖武天皇の勅願により、諸国を行脚なさっていた行基菩薩(668‐749年)が仁比山に三十六のお寺をつくられました。
その総称を「仁比山(にひざん)護国寺(ごこくじ)」といいます。
不動院、地蔵院、成善坊、地蔵院の水上坊、吉祥院、法音院の成道坊や宝林坊、円頓坊などがその名を残しています。
地蔵院は、仁比山護国寺の中心となっていた 不動院の子院でした。
現在の九年庵のお庭に、かつての不動院と地蔵院がありました。
寺伝によると、仁明天皇承知十一年(844年)、唐より帰朝された慈覚大師・円仁(えんにん794‐864年・伝教大師最澄(さいちょう)の弟子)はこの仁比山で一千座の護摩を修めました。
修法のため、慈覚大師は閼伽井(あかい)を堀り、明星水と名付けましたが、その時、土の中から日吉宮と書かれた額を掘り出し、天皇に奏上されました。
天皇はいたく感ぜられて仁明天皇の「仁」と比叡山の「比」とを合わせて「仁比山護国寺」の称号を賜ったといいます。
仁比山護国寺は、明治以前まで仁比山神社の神宮寺でありました。護国寺一山の塔頭・不動院は、日吉神社ともよばれたこの神社の別当職も兼ねていました。
地蔵院はやがて戦国時代には、数々の兵火にかかり、永禄十二年(1569年)大友宗麟(1530〜1587年)の兵により焼失。
以後、江戸時代になって鍋島藩藩祖直茂公、第一代藩主勝茂公により地蔵院は不動院とともに再興されました。
明治維新後、神仏分離のために三十六のお寺が次々と閉鎖になる際、地蔵院だけが残りました。
しかしまだまだ貧困の中、実業家 伊丹弥太郎氏の提案により、伊丹氏が所有していた 三十六のお寺の1つ、吉祥院の跡地と地蔵院の土地を交換することになりました。
地蔵院は、吉祥院跡地に移り、伊丹氏は、現在の九年庵の土地に九年の歳月をかけて別邸を築造されたのです。
現在、地蔵院では護国寺三十六坊の御本尊であった「十一面千手観世音菩薩」や塔頭不動院の「不動明王」、「地蔵菩薩」などのたくさんの仏様をおまつりしております。
護国寺一山を守る仁王門の金剛力士像に、かつての盛んであった山容がしのばれます。
また、奈良時代、仁聞菩薩(にんもんぼさつ)が訪れた寺院、佐賀県・長崎県・大分県・熊本県の33箇所の九州西国観音霊場(その歴史は西国三十三ヵ所や四国八十八ヵ所より古いとされてる)として
巡礼の輪をひろげています。
行雲流水の旅に生きた俳人、種田山頭火が「風の中 声はりあげて南無観世音」と昭和4年より七年にかけて九州西国三十三観音霊場を巡礼された際、地蔵院にも訪れています。
地蔵院は九州西国三十三観音霊場二十番札所であり、一千三百余年の法灯を伝え、人々の信仰を集めています。